お米と日本の歴史
稲作渡来民と国家の成立
お米と日本の歴史
| 1.日本列島にはいつ頃から、 人がすんでいたんだろうか? お米と日本の歴史と大和の文化を考えてみます |
とおい、とおいむかし、私たちの祖先は、何かの事情で それまでの土地を追われ、新天地を求めて、はるか東の島にむかって、やってきたそうです。 それまでの先住の民族もいた。シベリアの方から北海道まで、氷でつながっていた頃の、人たちで、80000年前から 16000年前のころの人たちです。石器時代のことです。 このころすでに農耕の跡がわずかに、遺跡からみつかり、 魚介類、イノシシ、鹿、ミズナラ、カシ、椎の木、やまいも、オニユリ、マメ、エゴマ、ひょうたん、などの野菜栽培、また 株分け栽培では、野ビル、彼岸花、クワイ、ウコンなどの栽培跡が見られます。何千年も前のことです。 |
| 2.はじめ稲作はアジアから 海を越えて、やって来た。 |
縄文後期 いまから2800年も前、南の海から、小規模づつ イカダに乗り、島つたいに小さな集団で農耕をしにやってきた。 海から河口、干潟、川の上まで、イカダで農耕土地をさがして、定住したようです。 タロイモ(里芋)、ヒエ、粟、蕎麦、イネそして、野菜は サトイモ、ひし、オニバス、クワイ、ミズアオイ、マコモ、セリ、ショウガなど、そして 海産、狩猟と採集で命をつないだと思われます。 いま日本にある大半の雑草、およそ 460種類 以上もが大陸から持ち込まれたものだそうです。 このころは、土地争いもすくなく、長い間かけて、焼畑 と、低湿地などで稲作をやっていたようですが、あまり収量 は、多くは無かった。 木や石の農具では、水田や農耕には限界があったのでしょう。 |
| 3.古墳時代に〜 中国、朝鮮沿岸より どっと稲作渡来民が〜 |
稲作の技術が出来上がったら、何年も保存の効く穀物 が、タロイモよりも効率が良い稲作に農耕栽培は向かっていくが、イネの場合干潟と多量の水、水路、灌漑用水に共同作業、あるいは争いで、調整、集団、政治の必要性が生まれる。かんごう集落、古墳の成立です。 揚子江、黄河流域で、争いが起きるごとに、中国、朝鮮 日本列島に御民が流入してきたが、稲作技術、農具や武器のための、鉄器、青銅の技術、馬、牛〜中央アジア、ヒッタイト の鉄器まで、日本にもちこんで、争い、主権、覇権が起こる |
| 4.争いをくりかえす新田開拓と 王朝の覇権 |
紀元前300年ころには、日本列島には何千と古墳(集落)ができあがり、覇権を巡って、王族が争うようになる。 奈良や秩父地方では、百済系、新羅系、その他のアジア の王族が植民地を日本列島のあちこちに創り、攻防と盛衰 を繰り返した。 紀元300年ころまでで、防衛上の問題で、古墳は終了し、山城の時代に入る。とどうじに、仏教がはいって きて、太陽神と仏教との宗教対立が激化し壬申の乱、大化改新で凡その日本国の建設をみる。 資料によれば、縄文人の人口は7万人くらいであったが、 古墳時代の終わり、或いは奈良時代までには、数百万人の人口と、100万町歩の水田ができあがり、国家の基幹たる税としての基礎は、すでに出来上がっていたのである。 稲作の品種改良も活発に行われ、文化や信仰形成の基礎ができあがる。 |
| 5.奈良盆地と国家の成立 |
新羅系、百済系、在来の縄文系の多くの王族が争い あるいは、同化、融合され多くの神話、伝説、地蔵、山岳信仰 を生みながら、奈良王朝の成立をみる。 稲作領主としての天皇領土あるいは荘園領主と凄まじい攻防が行われ、領主制度は武士社会を通じて、 明治維新まで、稲作や水田が、日本の税制を支えてきたのである。 |